中西先生を追悼する

その日は町田の倉庫から神保町まで、編集K君の車で本
を運ぶ予定だったので連絡を事務所で待っていた。そし
て午後に彼から電話が来た。

「中西先生が亡くなりました……」彼の最初の言葉だった。
俺の頭は真っ白になった。

つい数日前には俺の前で、編集K君は中西立太先生の『日
本の甲冑[下巻]』の編集を担当しており、その本の最
終校正で中西先生と電話で話していたんだ。ほんの数日
前なんだ。

ついでにゲンブン・マガジンの感想を聞こうと思ったが、
忙しいので後でいいやと思って、電話を回してくれと言
わなかった。
「先生、元気かい」
と彼に聞いたら「元気ですよ」と言う。
元気だったんだ……。

まさか突然逝ってしまうとは思ってもみなかった。
去年末に『ゲンブン・マガジンvol.001』を中西先生に
発送し、電話で送りましたと伝え、先生の画集をうちで
出して、そしてマンガ・絵画教室も開きますから、その
ときは講師をお願いします―――が最後の会話だった。

「いいよ、させてね」が先生の最後の声だった。
ヒドイじゃーないですか中西先生。もう先生のような絵
を描ける人は出版界に誰も居ないんですよ。

俺がスペインの出版社から招待を受けたときに、「プラ
ダ美術館で画家ベラスケス見てきますよ」と言った時に、
中西先生は「僕は日本のベラスケスになりたかったんだ」
と言っていた。先生はベラスケスを越えて、日本の出版
界と商業美術を支えた挿絵画家として代表的なトップの
人材だと俺は思っている。

いま出版界は寂れて死につつある。自業自得なのだろう。
あれだけ本を面白く出版を支え続けた絵描き達を捨てて、
安直な写真に置き換えた週刊誌が登場した。

いま、その週刊誌が終わりつつある。本を安く退屈に仕
上げてきた当然の報いなのだろう。

中西先生を知ったのは小学校五年生の頃、そう昭和37年
(1962年)の光文社の月刊誌『少年』の口絵だった。
[進め!442戦闘隊]この二色刷りの絵のインパクトは大き
かった。
凄いショックだった。俺のスタートはここからだった。

15、6の頃、俺と現在の八重洲出版社・出版部長の松尾君
と二人で、大手の出版社に教えて貰った住所を頼りに中
西先生の門を叩いた。そのとき迎えてくれた三十代半ば
の中西先生の顔を今でも覚えている。

弟子入門は断られたが、いつも先生宅に入り浸り仕事の
進行を見せていただいた。
中西先生の絵に対する考え方を学ばせて頂いて、今でも
何時までも感謝しています。

言葉には、とても表現できない。
有難うございます。中西先生!

2009年4月2日深夜

小林源文