“人間公衆電話って知ってるか!?” モンゴルの首都ウランバートルの繁華街で見たのが
『人間公衆電話』だ。 成人の男女が普通の白い家庭用卓上電話の親機を抱えて立っており、
デパートの入り口付近には一番多く客待ちしていた。よく見ると保温用に毛皮で包んで
バッテリーの消耗を防いでいる『人間公衆電話』もいた。 昼も夜も零下二十度の日中でも零下三十度の
夜間でも道路際で見かけた。携帯電話はリッチな人には普及しているが、
普通の公衆電話はデパート内にあったが路上では見かけなかった。これって普通か?
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「始まり」
俺がモンゴルに行ったのは年末進行と呼ぶ出版業界恒例の、締め切りが印刷所の都合により
一週間以上繰り上がる忙しい時期が終わった2004年12月20日からだ。
MMP(モンゴルミリタリープログラム)の日本側スタッフから声をかけられてたのが
四泊五日『戦車試乗と射撃のパイロットツアー』というヤツだ。
厳冬期のモンゴルは観光客が減少するので(当たり前だよね寒いもん)モンゴル国軍参謀本部の
梃入れで、モンゴルの企業と通商関係にある日本企業に協力を仰いで実施された旅行なんだ。
軍の全面協力だと聞いたので極地並の厳冬期でしかも零下三十度なんてめったに体験できない。
コリャーいけるぞと長年の飲兵衛仲間で軍事ライター古是三春君に声をかけたら、彼は商用で
北京上海から帰ったばかりで忙しいのに気軽に付き合ってくれた。彼とは十数年前の
『中国射撃ツアー』からの付き合いでサバゲや仕事仲間でもある。六月にはタイランドにサバゲ仲間と
射撃に行ったが完全に期待外れだった。 夕闇の成田からはミアットモンゴル航空の中型旅客機に乗り、
韓国でトランジットして七時間後の深夜にウランバートル国際空港に到着した。
MMP(モンゴルミリタリープログラム)の日本と現地スタッフが入管で待っており、
なんと空港セキュリティから警察署長まで人脈が繋がっていたのだ。
帰国の際は空港までパトカーの先導付きでVIPルームにも入った。彼らのネットワークの広さに俺は
正直驚いたが、この凄さは彼ら自身も判ってないんじゃないのかな?
中国でもこれほどの待遇ではなかったぞ。 外に出るとMMPのワゴンが待機しており、
身を切るようなモンゴルの寒さは少しだけで、彼らの要領と準備の良さは評価できる。
スタッフに連れられて韓国レストラン「ソウル」で簡単な打ち合わせが生ビール(以外に旨い!)で始まった。
明日の目的地は車で一時間ほどの郊外の軍宿営地でかなり寒いらしい。昔サラリーマン時代に
太井埠頭のコンテナターミナルで丸十年整備員をしていたが、海のそばで冬の厳しさはそれなりに
知っているつもりだった。ここモンゴルでわずかな時間でも経験したことのない身を刺すような寒さで、
明日からの日々に少し不安を覚えた。 市中心部(フラワーホテルはUBの東寄りです。)に近いに
出撃ベースになる日本人経営の「フラワーホテル」に到着した。フラワーホテル、
なんて安直なネーミングだろうか。建物は古いが部屋の備品関係は一番しっかりしていると言う。
部屋はスチーム暖房でムンムンと暑い。調整は小窓を開けて冷気を入れろという。寒冷地なので窓も
ドアも二重構造になっている。エアーコンディショニングではパワー不足なのだろう。 このホテルは
日本語が通じるので安心だという話だ。十数年前に南米コロンビアには何度か行って長いときで
四週間滞在したが、日本語が通じないのは辛いものがあった。帰国の途中にロスの乗換えで研修派遣の
自衛隊の団体を見たときは、日本語と日の丸の有難さを感じた。俺ってやはり日本人だ。
フラワーホテルの何故かヌル〜イお湯しか出ないバスタブに入って早く眠った。
(あとで熱くする方法がわかった)カルチャー・ショックのテンコ盛りが始まった。
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「モンゴル最初の糞寒い一日目」 12月21日。
俺と古是君でありきたりのホテルのバイキングで簡単に朝食を済ませた。
ホテルの二重窓から外を覗くとガラスに氷が張り付いていた。窓の下には木製のトレーラーハウスが
見える。天候は快晴。窓の外では鳥の鳴き声がする。空を飛ぶ鳥でさえ凍りついて落ちるんじゃないかと
思っていたが飛んでいた。 荷物はホテルに置くとして、前もって用意した冬季装備で身支度を整える。
年末進行で忙しくて準備期間が足りなかった。うちのカミサンが用意してくれた遠赤外線下着に、
古是君と買いに行った寒冷地仕様のプレスサーモの下着上下をかさね。
厚手のシャツにセーターにチョッキ、スキーパーカーで上だけで六枚だ。 寒冷地用のブーツが欲しかったが
何件も店を回ったが探せなかった。 それほど寒くない東京では極地用装備ってないよな。
仕方がないので庭の手入れ用にあった釣り用ラージサイズのゴム長を持参した。
厚手の靴下を二重に履いて、底には新聞紙を敷いて小型ホカロンを入れたがマイナス二十度はOKだが、
マイナス三十度では効き目はなくなった。翌日は普通サイズのホカロンにバージョンアップしたが
これもダメだった。厳冬期に行くときは日本でしっかりと準備するか、現地で前もって完全な防寒靴を
買って用意して頂く事をお勧めする。だが寒いときは無理しないで車に戻って暖を取るのが一番だ。
厚めのスキーパーカー上下で着膨れして達磨さん状態でフロントに降りていった。武装SS記章つき
ベージュのウシャンカ真似っこ帽子が俺のデカ頭を飾った。定刻通りに迷彩服着用のMMP現地スタッフが
フロントで待機していた。 MMPスタッフには噂に聞いた長身の知的系美人がいた。背は高く足も長い。
名前はサラ。日本語が凄く上手くて日本人と変わらないんだ。もちろん顔も姿かたちもモンゴル人DNAと
日本人DNAは同じで、日本で普通に見かける同じ顔が幾つもあって、声をかけると日本語で返事が
返ってきそうな不思議さが街中に充満していた。ソビエト連邦が崩壊するまではソビエトの影響下だったので
ロシア人も多く住んでいた。現在は韓国人ビジネスマンや中国人労働者も多いと聞いた。
MMP現地スタッフには男性六名、女性三名がおり全員日本語が普通に会話が出来るのだ。
翌日の夜には残りの女性二人が合流した。一人はアイドル系のゾーラに、白系ロシア人の血が混じった
マイで大学院生なんだ。 昨晩は暗くて街の様子は見えなかったので、今日は走るワゴンの窓から
興味深く街を眺めた。古是君がソビエト時代の影響で建物はロシア風だと言っている。なるほど、
看板などはモンゴル語読みのキリル文字(ロシア文字)表示で、建築様式など見ていると劇画で
描いていたハリコフなどの街並みとそっくりだ。地面に薄く氷結した雪が残っているが日中も零度を
越えることはなく、このまま春までこの状態が続くようだ。今年は暖冬で雪が少ない。
普通は積雪10cmで積もることのない雪の結晶は風で流されていく。これで暖冬かい?
(この積雪が翌年の牧草を決定するので遊牧民には重要なんだ) ここ首都ウランバートルは
建築ラッシュが始まっており、市中心部には古い建物に混ざって工事中のビルが多かった。
日本や韓国で一発当てたユーターン組と海外の投資が集まってバブルが始まっていると説明された。
韓国のメーカーが建設し中国人が労働者なんだ。途中でスーパーに寄った。韓国や中国製の輸入食品も
多くロシア製もありキャビアは一缶400円だった。 首都ウランバートルにはモンゴルの全人口239万の
三分の一が住んでいる。 日本の県別総人口で比較すると宮城県より多く新潟県より少ない。国土の広さは
日本の約四倍で人口の60%は遊牧民特有のゲルと呼ばれる移動と組み立ての簡単な毛皮製家に
住んでいる。ウランバートルの街にも良く見かけるが、モンゴル政府も遊牧民の定住化を勧めているという。
治安はかなり良く都市化が進めば人口も増えるだろう。だが産業は牧畜と毛皮の産出なので経済発展は
この国にとって今後の重要課題だろう。 料金所を通過して家並みが少なくなってきたと思ったらもう郊外に
出ていた。道路の左側には湯気の立ったパイプラインが地表から出て高架になり、郊外の火力発電所の
方に向かっている。 遠くに見える発電所の高い煙突が蒼い凍った大気に真っ白い蒸気を吹き上げていた。
街中で所々のマンホールから蒸気が噴出していたのを思い出した。火力発電所の余熱を街に
引いているのだ。 ワゴン車はタバン・トルゴイの軍宿営地を目指しており右手には単線の鉄路が見えて
操車場もあり、オイルタンク車が沢山列をなしていた。いま始めて世界地図を広げてモンゴルを見ている。
俺は勉強不足だった。この単線は北京から始まりウランバートル駅を通ってシベリア鉄道に直結され、
ロシアのイルクーツクにも近い。鉄路で北京-ウランバートル間は一日の距離で、毎日一列車走っている。
モンゴルはロシアと中国という大国に挟まれて、政治的にも地政学的にも大変な時代を過ごして来たのを
少しは理解できた。ソビエトロシアの革命の後、1921年にモンゴル革命で中国から独立したのだ。
中国人弁護士に酒の席でモンゴルに行くよと伝えたら、チョット不快な顔をして『外モンゴルか
内モンゴルか』と聞き返された意味がやっとわかった。俺は無知だな。 塀で囲った倉庫の並びを通過した。
ここは毛皮の交換所でどんな動物かわからないが毛皮がうず高く積まれていた。モンゴルは革製品が
安く原料を中国に輸出している。「あ!狼だ」と俺が叫んだら犬だよって返事が返ってきた。近所の遊牧民が
犬を放し飼いにしているという。だだっ広い白く凍りついたモンゴル平原に『ゲル』の家は見えないが、
レンガ造りの集落が澄み切った大気の遥か遠くに見えた。本当に空気の透明度が高いのだ。
左右に低い丘を見ながら舗装道路を走っていると長さ数十メートルの土手が所々にある。吹雪のときの
待機所かと思ったら、五月になると雪解け水が集中し川になるのを防ぐためだ。ここは標高1.200mの
高原地帯なんだ。空気も少し薄い。 舗装道路を左にそれてホコリと氷の結晶を巻き上げて丘を幾つか
越え、轍に沿ってデコボコ道を走っていく。荒涼として凍結した丘の頂上付近に高さ1mくらいの石を
積み上げた小山があり、その中心には経文を書いた布切れを幾枚か結びつけた丸太ン棒が立っていた。
モンゴルの自然信仰で『オボー』と呼び、一種の道祖神で途中いくつか目にしていた。
ここで車を停車させた。 MMP日本スタッフの一人がさっきのスーパーで買ったウォッカをコップに注いで、
それに指をつけ数方向に弾いた。天と地と大気の精霊に酒を捧げてから、年長者の俺から一口飲めという。
このウォッカの回しのみが年齢順に終わると、次に全員で小石を拾って小山を時計回りに歩き、
小石を積んで旅の安全を切願した。ウォッカの瓶まで積んであった。 モンゴルの風習に東京の下町育ちの
俺は始めて触れて感動した。俺はこの糞寒いモンゴルの丘陵地帯でずいぶん昔に忘れていたヤツを
取り戻した気がした。何もない極寒の地で骨にギシギシと凍みるここに来て良かったと始めて
俺は実感した。 (もしあなたが生活に疲れを感じたら、ここに来るといい。ここには俺たち日本人の源流が
ある。今は凍りついた岩と石しかない無常の空間だが、春になるとここは一面緑に覆われて白い花が
咲いて景色は一変するという。俺はこの白く凍てついた荒涼とした世界が好きになった) 車は
やっと目的地のタバン・トルゴイ(トルゴイとは丘の意味で、普通は“タバンの丘部隊”と呼ばれる)
訓練施設に着いた。 なんとパッとしない建物なんだろうか。くたびれた正門の50m手前には無意味な
赤白の上がりっぱなしの遮断機(棒かな?)があり、周辺には地面すれすれに土嚢を積んだ浅い訓練用の
塹壕が幾つかあった。スタッフの運転手がモンゴル語で何か怒鳴ると田舎のアンチャン風の兵隊が
シブシブ出てきて、これまたくたびれた鉄門を開けた。軍事施設なのだからせめて格好よく敬礼くらいは
やって欲しいよ。門柱にはモンゴル語の看板と311の表記が。311部隊が正式な名称のようだ。
施設内は凍りついた中庭を囲むようにホテルと呼ぶ宿泊施設が二棟、反対側には食堂兼用の集会所に
管理練や倉庫など用途不明のレンガ造りが全部で10棟くらいあった。 最初に通されたのは
四人用テーブルが50人分はある大食堂の隣にある士官食堂だ。この士官食堂は縦長でランチの
用意がされた同じテーブルが4セットに、壁際には三個の大型ソフア、奥にはカラオケの設備もあった。
なんか不思議なものでモンゴル人に親近感が沸いてきた。
まもなく基地司令のバヤルサイハン大佐が来て、俺と古是君が紹介されて昼食会が始まった。
サラダに始まり軍用パンとスープ料理で思ったよりも美味しかった。これで普通の軍隊料理なんだ。
モンゴル料理って意外と日本人の口に合うんだ。隣の日本人スタッフは『モンゴル軍はこんなに
旨い食生活でズルイ!』と言っていたw これに比べたら陸上自衛隊は非常に情けない。
フリカケでごまかしてるんだから、航空自衛隊はまだ増しだったが海上自衛隊はお呼びがないので
俺は知らない。(呼んでくれよ!) ここタバン・トルゴイの311部隊は別名『国連軍訓練センター』とも
呼ばれており、イラク派遣の事前訓練として米国海兵隊、イギリス軍、ドイツ軍、イタリア軍、フランス軍、
中国軍に韓国軍、何故かロシア軍まで来るそうで、演習場奥には国連が資金を出した
『市街戦訓練センター』があった。その近くの丘の上には米軍用施設が頭を出しているのが見え、
米軍用に宿泊施設など建設中なんだ。ここには山岳に丘陵地帯、平原地帯に河川、森林地帯など
様々な地形があって演習環境が整っているのだ。これで凄いと言わなかったら、何を凄いと言うのだろうか。
日本の自衛隊など演習場が狭くて困ってると聞く。陸上自衛隊の主力野砲FH-70などは最大射程30kmだ。
戦車も含め練度を上げる全力射撃のときはわざわざ太平洋を越えて米国まで行くのだ。
さて旅の最大目的が本日の射撃だ。午後から車で6km先の演習場まで足を伸ばした。硬く凍った道を
『国連軍訓練センター』に向かって進んでいくと、今度第四次イラク派遣で訓練に来ている二列横隊の
第150(特殊作戦)部隊を追い抜いた。小隊指揮官がこちらに敬礼を送ってくる。彼らはここから
センターまで戦闘パトロールの態勢で展開して前進するのだ。先頭の一個分隊(10名)が伏せて後続の
分隊が立膝の待機姿勢で待ち、前進命令で静かに先頭分隊を追い越して伏せる。
この繰り返しのウサギ跳び前進を何度も、氷点下二十度の荒涼たる原野で俺たちの射撃場の背後で
しているのだ。総勢130名のモンゴル軍特殊部隊なんだ。 ここにはMMP専用の射場として、
気の利いた施設がブロック建設されている。全体を見る監視哨に射場のバラックだ。バラックには銃器に
弾薬が集積される。射場には並列に何箇所も射撃ポイントが設置され、50m間隔で最大200m先に
人型標的が立っている。最左翼の射撃ポイントには標的用のブロックがあり、その250m先には
標的になった中古乗用車のスクラップがある。遠くには標的の自走砲のドンガラが見える。
射撃インストラクターは第311部隊の火器担当アルタンフー軍曹で、三十半ばかなと思っていたら意外と
若く28歳だ。軍歴15年(13で志願入隊したのか?)のベテランで全軍上げての射撃大会でも、
優勝経験のある寡黙で素朴な兵士だが結婚して一児のパパでもある。 この老け顔軍曹とは
夜も一緒に騒ぐ事になる。 さて銃器の説明をします。左より・・・(俺のデジカメ画像が参考
小隊支援軽機関銃“PKM” 半自動ライフル“SVT1940” ライフル“M1891/30” 短機関銃“PPSh1941”
騎兵用ライフル“M1944 突撃銃“AK47” 小隊支援軽機関銃“PKM” 1963年に正式配備になった
汎用軽機関銃で性能は優れものです。旧式なリム付き弾薬7.62mm×54R用に合わせて設計した
成功作と言えます。ボックス・マガジンの装着を最初に始めたのがこの“PKM”軽機関銃で、
一人のガナーで簡便に取り回しが利く点が最高でしょう。俺は40発を装弾し目標の中古車に向けて
射撃したが、この弾薬は反動の強力なことと言ったら・・・・連続射撃は体力を消耗します。
まずはお試しあれ。 半自動ライフル“SVT1940” 第二次大戦始めに開発され
米国のM1ガーランド・ライフルと同様の発射ガス作動方式で、ドイツよりも実戦配備が
先に進んでいたんですね。ボルト・アクションのライフルと撃ち比べると、特性の違いがわかります。
ライフル“M1891/30” 19世紀末に当時の世界標準ボルト・アクション式のライフルで、モーゼル・ライフルの
発射機構がベースになっています。映画『スターリングラード』では主人公ワシリー・ザイツェフが使用した
狙撃ライフルだが、スコープは戦後の型です。(MMPで使用しているのはPE型です。
一九三二年にドイツのツァイスをコピーして造られたもので、四年程度しか生産されていない希少品です。)
ウランバートルの博物館には当時のスコープ付きがあり、(ザイツェフ使用のPU型、
そしてPE型もあります。)他にも多数の兵器が鎮座しており、見物に行っても損はしないと思います。
短機関銃“PPSh1941” 言わずと知れた第二次大戦を代表するSMGで、ドイツ軍のMP40と
対極をなしている。戦争映画『戦争のはらわた』のラストシーンでは印象的ですね。この“PPSh1941”を
始めて射撃しましたが、発射方式はブロー・バックといって発射の反動利用ですが、発射速度が
想像よりかなり早く快調に連射できます。製造時期の違う弾を混ぜると不具合が生じるのが注意点です。
今回やっとドラム弾倉の構造が理解できました。 同クラスの短機関銃の“PPS1943”は戦時下の
レニングラードで、兵器の不足を補うために“PPSh1941”をモデルにプレス加工生産されましたが、
短機関銃としてはオリジナルより射撃しやすい成功した短機関銃です。射撃が楽しめる代表的な小火器で、
これもお勧めです。 騎兵用ライフル“M1944 ライフル“M1891/30”を携帯に便利に改造した
ショートバージョンです。騎兵用となっていますが一般兵士用で、このスパイク型銃剣なしが“M1938”と
呼ばれます。古是君の発射を横で離れて見てると、オレンジ色の大きな発砲炎が出るのを確認できます。
バレルが短いので発砲炎も大きいのです。楽しいぞ! 突撃銃“AK47” 旧共産圏の代表的な小火器で
「自由の戦士」の武器と言ったほうが一般的かも知れないね。アブトマット・カラシニコフ
(アブトマット・カラシニコバ、がより正確かと。)が正式名称で、第二次戦時中にドイツのMP44突撃銃を
参考に設計され、名前の通り47年に正式化(制式採用は49年です。)されました。戦後の軍用小銃の
世界標準の流れを作ったと言えます。中国でも飽きるほど射撃しましたが大好きな銃です。照星と照門の
間隔が狭いのが欠点と言われますが、落ち着いて狙うとよく当たります。もちろんセミ・オートです。フルで
俺は全弾命中なんて誰も信じません。まずは手に取って撃ちましょう。標的をブロックにすると快感以外の
何者でもありません。砕け散るブロックの勢いは、弾薬にパワーに比例します。凄いんだよ。
この他に狙撃ライフル“SVD”にモーゼルミリタリー自動拳銃。(これはボロモーゼルとか
ボルシェヴィキ・モーゼルとか呼ばれるタイプで、帝政ロシアがドイツに特注して造らせたものです。
希少品です。ステップバレルが特徴的なのですぐわかります。)“マカロフ”、“トカレフ”など標準装備の
拳銃に、特殊部隊装備の“スチェッキン”拳銃も可能で、全部一通りほど射撃をした。 “スチェッキン”を
見たときの古是君は目の色が変わったんだ。彼のペンネーム古是三春はロシア海軍提督フルンゼから
きているほどのロシアン・フリークなんだ。病気とも言える。この“スチェッキン”拳銃はこの311部隊にはなく
現在演習中の150部隊から借りてきたのだ。 つまり150部隊はモンゴル軍特殊部隊なんだ。
この拳銃は一般部隊の装備品ではないし、同じ弾薬のマカロフ拳銃よりデカイ。グリップ内の
マガジンには20発のマカロフ弾が収容でき、セミ・フルオートの切り替えができるのだ。
つまり小型短機関銃と言えるし、ソビエト時代に開発された特殊作戦用でサイレンサー装備もある。
ライフル射撃でボルトが突然動かなくなった。最初は不良品かと思ったが気温が氷点下二十度から
三十度に低下すると、ボルト・アクションのライフルはオイルが凍りつき動かなくなった。
記録にあるように東部戦線では本当に銃は射撃不能になるんだと実感した。(対処法はお湯に入れて
オイルを除去して使用するのがベストのようです)だが、その他の自動火器はこの寒さでも快調に
射撃ができるのだ。ソ連の火器って凄いと再確認した。寒気はデジタル・カメラにも影響し
作動不良が始まり、ズームの動きがにぶくなってきた。液晶画面のパンクも時間の問題かも知れないので、
保障温度もマイナス二十度になっておりホカロン入りバックに戻した。普通の日本製のフイルム・カメラは
順調にシャッターが切れている。 射撃をしている後ろではT-54B、BMP1、BTR60PB、BRDM2が、
俺に早く乗れと待っている。この射場で最初見たときは目の前にあるBTR60PBとBRDM2に、
人前をはばからず思わず小躍りして(撮影されなくて良かったよ)抱きついてホオ擦りしてしまった。
BMPを含めてこれに触るのが夢だった。射撃より先にBTR60PBにヒイヒイと登り(押してもらった)
太った体を無理やりハッチに押し込んで、さっそく砲座に座り照準機カバーを取ってレチクルを
覗いてしまった。(ソビエトの兵器は大好きで戦車よりは装甲車が好きなんだ)その夢がいま
目の前にあるのです。本当に冷戦構造が崩壊してヨカッタ〜♪ この日は射撃で時間がイッパイで
戦車・装甲車の操縦は明日に回すことになった。 時間は午後三時近くなり日も落ちて薄暗くなり
気温はマイナス二十度から三十度になって、MMP日本スタッフの睫毛一本一本に氷が見える。
足の裏がジンジンと冷えてきて痛くなってくる。古是君に聞いたらやはり足が寒いと言っている。
俺だけじゃないんだ良かった。いや良くないか。 スタッフが気を利かして車をアイドリングさせて、
時々凍えた体を車内で温めた。マイナス三十度での小便はツララ状に凍るかとおもったら凍らなかった。
また寒いからトイレの回数が多いかと思ったが予想は外れた。極限まで乾燥して体からの蒸散も多いので
小便の量も少ない。 時折、乾いた雪が風で舞い降り積もらず飛んでいくだけだ。
アルタンフー軍曹とスタッフは素手でもくもくとマガジンに弾丸込めている。素手なんだよ。
女性スタッフなど俺にこまめに気を使ってくれるし、よく働くので日本スタッフの評価は日本人女性より
働き者だという。 古是君は拳銃のロシア風ワンハンド射撃で上手いとアルタンフー軍曹に誉められていた。
俺は両手保持でも当たらなかった。俺はヘタなんだよ。 乗用車が二台接近して近くに止まった。なんと。
一台をRPG-7の標的として撃てという。なんともったいない事か。動かなくなったヤッツでいいじゃん、
と伝えると。『動かないとここまで運べないでしょ』と返事が。そうかな? モンゴル兵は車と交換なら
喜んでイラク派遣に行くだろう。中古車でも彼らの給料と危険手当でも到底手が届かない
「高嶺の花」なんだ。あとで日本国自衛隊員の給料とイラク派遣危険手当を教えたら驚いていた。
「俺、日本人になりたい」とはMMP現地スタッフの弁だ。自衛隊よ。アンタら給料高過ぎだ。
モンゴル人傭兵部隊を組織して、日本の正規軍にしたほうが正解じゃーないのかな? 軍隊の
給料 職業軍人と徴集兵に分かれており、職業軍人は迷彩服着用で徴集兵はロシア軍型のルパシカ。
徴集兵の兵役は一年で公共事業の安い使役に使われる。代表的な業務は道路の補修に、
首都ウランバートルと他の都市を結ぶ光ケーブル埋設工事で、移動しながらフルタイムのテント生活を送る。
給料は月給制で兵隊はUSドルで$25、軍曹は$30。 尉官クラスで$50台。佐官クラスで$100台。
大佐クラスは日本円で一万五千円、参謀本部副部長で約二万円。 さて問題です。 モンゴル軍の
イラク派遣は某国の経済援助とバーターで決まりました。経済援助したのは何処の国でしょう。
(@米国 Aイスラエル B日本) ↑先生、コレ、書いてもいいんですか?w
RPG-7を持った小柄なモンゴル人のオッサンが来た。RPG-7のインストラクターを務めるのは、ナント!
第150部隊第一次イラク派遣のソゴー少佐だと紹介された。ソゴー少佐が俺にRPG-7を知っているか
聞くので、中国を含めて四回か五回発射したと答えた。(俺が描いたアーマーモディリングのRPG-7図解は
自衛隊のイラク派遣部隊に送られ参考資料となっている)簡単なレクチャーで、白い乗用車を目標に撃った。
ソゴー少佐は手真似で、反動があるぞと教えてる。無反動砲といっても反動は確実にある。中国では
目の上を切ったヤツもいた。数センチ離して撃つものなんだ。 正直こいつは怖い。
本当は遠く離れて見てるのが一番なんだ。距離は150mとか200mと教えられて最初は立て膝になったが、
反動で後ろにコケそうなので結局立って発射した。ブワン!と轟音がした。ロケットランチャーを撃った本人は
真っ白い発射煙に包まれて無風状態なら見えないが、発射煙は風で飛んですぐに黒い爆煙が見えた。
目標の数十m手前だ。次は古是君だ。俺はこのレチクルで撃ったので少し高めにと教えた。
古是君の弾頭は目標の屋根をかすめて向こう側で爆発した。三人目は俺の知らない何処かの
旅行エージェントだ。古是君は当たるかと聞くので三人目だから当たるだろと答えたら、
ブヒュと爆音がして目標の車が爆煙に包まれた。『命中!』 みんなで目標の乗用車に近寄っていく。
目標の手前には俺の弾頭の爆発痕があった。破裂孔は思ったより小さくて放射状に黒いススに雪それに
土くれが飛び散り、その孔から何か強い力で引きずったような溝が目標に向かって10mくらい続いている。
数十m先の白い中古乗用車の前部ドアにはRPGの弾頭が命中し黒く焼けた貫通孔が、後部ドアには
焼け焦げのない直径10cmの貫通孔があった。インストラクターのソゴー少佐が前部ドアは三人目の
命中孔。後部ドアは俺のだと教えてくれた。意味が理解できるまで時間がかかった。RPG-7の弾頭は
成型炸薬弾で別名“化学弾頭”ともいう。(酸性とかアルカリ性の化学ではなく、RPGの成型炸薬弾は
高温で装甲版に孔を穿つのでもない。弾頭の金属分子が毎秒8.000mで衝突して装甲を貫徹するのだ)
RPG-7の弾頭は手前で爆発しても軽く50mくらいは効力を失わずに突き進み、乗用車のドアなんか
貫通してしまう。怖い兵器なんだ。 イラクでテロリストの強力な武器であることを俺は改めて知った。
いつの間にか基地司令が来ており乗用車を燃やせと言う。タイヤや備品が盗まれるからだ。
イラク派遣の指揮官(指揮官ではないです。)だったソゴー少佐に随員として小柄なモンゴル兵がいたが、
この兵隊の目の印象が少佐と同じ雰囲気があった。彼の布製バンダリアが特殊部隊仕様で俺が
ジロジロと見るので嫌がっていた。(彼の装備の前後をカメラで撮影するのを忘れて、いま俺は非常に
悔しい思いをしている。)彼もまた二度目のイラク派遣に行くのだろう。ここで聞いた話だがイラクで
米軍とスペイン軍、それにモンゴル軍の三者で共同作戦中に襲撃を受けたという。
米軍はその場に伏せて、スペイン軍はチリジリに逃走し隠れた。モンゴル兵はその場から動かず目標を
見据えて反撃し損害無しに敵を射殺した。モンゴル兵は勇敢で豪胆だと評価されるがある意味
無神経なんだろうと思う。 モンゴル軍の軍曹昇進試験は“テントと着替え無し”の野宿で一ヶ月間過ごす
野外演習だ。射撃インストラクターの軍曹によれば、この昇進試験が一番辛かったという。
厳冬期の野外演習はテント無しで雪の上で寝るという。この話を帰国後の大晦日に古い友人で
陸上自衛隊の一佐(大佐)に話したら驚いて、かつて世界制覇を目指したチンギス・ハーンの蒼き狼の
末裔は強靭な兵隊なんですねと感想を漏らした。 さて日も暮れて夕食会の時間となった。
日本からの俺たち来賓のために羊を一頭つぶしてくれた。ここの料理長のオバサンは元国会議事堂の
レストラン料理長なんだ。デッカイお盆に積み上げた油でテカッタ丸石のような物を持ってきた。
基地司令と日本人スタッフはそれを手にとってアッチッチ、アッチッチしろと言う。実際本当にただの
石ころだったがアッチッチと石をお手玉のようにして、両手は羊の油でベトベトになった。基地司令は
この油を顔に首、耳に塗れと言う。何のことはない乾燥予防で生活の知恵だ。 次に運ばれた羊肉の
肩肉を年長者の俺が切り分けるのがルールで、大佐や周りの方々に切り分けた。
第四次イラク派遣部隊の指揮官となるブヤンジャルガル中佐の紹介も受けた。ブヤンジャルガル中佐は
今回から始まる戦闘パトロールという重責で任務の苦労が顔に出ていた。後で聞いたが
ブヤンジャルガル中佐がこの311部隊の大佐よりも実質的な司令官だという。
楽しい食事が終わると『ホテル』と呼ばれる宿舎二階に移った。 部屋でMMPスタッフと
火器担当軍曹を混ぜた飲み会となった。細かい説明はやめよう。写真の通りで大騒ぎをやって
途中で記憶はなくなり最後は酔いつぶれた。こんな楽しい飲み方は久しぶりだw
「モンゴルお馬鹿たちの二日目」 食堂から早く食べてくれと催促されるまで全員で寝ていた。
何故かベッドが二つ壊れている。俺が暴れて壊したと言う。ホントかよ!
(MMP日本スタッフが後で言ったが、俺の馬鹿騒ぎで応対するモンゴル人たちの心理が非常に
柔らかになったと言う。良かったのか悪かったのか俺にはわからない。)
廊下に出ると階段に向かう正面の机に若い女性がいて気軽に愛想よく気軽に答えてくれた。
ここの管理人で民間人なのだ。 首都周辺には十個の軍宿営地があるという。
ここ第311部隊は言ってみれば自衛隊の業務隊に近く、他部隊の各種訓練の支援を行う組織で
兵員は民間人も含めて約4〜50名で、数名の当直を除いて全員が首都から専用バスで通勤してくる。
毎年四月には総合火力演習が行われ、カチューシャの全力射撃が最高の見ものと聞いた。
是非見物したいものだ。 宿舎から外に出ると150部隊の小隊(約三十名)ごとに朝の訓練に目の前を
通っていく。冬季装備でウシャンカ帽に毛のついた防寒着でAK-47を肩にかけてロシア兵のようだ。
彼ら兵隊は隣接したホテルに宿泊している。 簡単に朝食を済ませて前日の残弾を射撃した。
俺は狙撃ライフル“SVD”に汎用軽機関銃“PKM”を使って昨日の車に向けて曳光弾射撃したが、
距離250か300mのピンポイント射撃でも燃料タンクに当たらないので引火させることは不可能だった。
ここは旧共産圏だったので曳光弾はグリーンに発火するはずが、曳光弾は全弾レッドに発火していた。
冷戦が終わると曳光弾まで変わるのかな。不思議だ。 この曳光弾の事を帰国してから友人の技術者に
聞いたら、グリーンは銅で値段が高いのでレッドは燐で値段が安い。その違いでしょうと教えてくれた。
短機関銃“PPSh1941”と“PPS1943”もこの日に射撃をした。 “PPS1943”は戦後も長い間、
第一線に留まり続けた優れものである。これはお勧めです。射撃は全部終了しRPGのリトライを
進められたが『おなかイッパイ』で断った。射撃は体力勝負だ。次は体を鍛えてチャレンジするぞ。
昼食の時間となり食事に戻った。食事中に外でAKの発射音が一回聞こえたが誰も騒がない。
もちろん俺たちも食べるのに夢中だった。美味しいモンゴル料理の食事を終えて部屋を出たら、
大部屋で兵と一緒に食事中のブヤンジャルガル中佐と会った。握手して昨日のお礼と150部隊指揮官の
中佐の武運長久を祈った。彼らの派遣期間は半年交代で、最初の一ヶ月は環境順応の為に前の部隊と
重複して滞在して装備を引き継ぐ。ヘルメットに防弾チョッキなどイラク装備は米軍からの貸与なんだ。
寒い外へ出ると食堂に入るために防寒着を脱いだモンゴル兵が分隊ごとに列をなし、
砂の小山を簡単に土嚢で囲ったところで数名ずつAK-47の銃口を向けている。引き金を引いてマガジンを
外して残弾処理の責任者に銃は空だと示していた。食事中に聞こえたAKの発射音はここからだったのだ。
俺たちはこの兵舎の奥の戦闘車両パークに行った。 本日の天気は曇りで朝から非常に寒く
氷点下三十度だ。昨日は夕方までは日が差していたが今日は完全に曇っていて、ひどいもんだ。
こんなとこでも人間も動物も生きているんだと実感した。地面はコンクリートのようにガチガチに
凍りついている。昨日の射場で見た風景だが、ヒツジの群れが凍った大地の草をはんで暫らくすると
同じ場所に、今度は馬の群れが来て草をはんだ。また暫らくすると次は牛の群れが同じ事をして
地面はいたるところ糞だらけだった。 ドアのない倉庫にはソビエト製T-54B戦車がホコリを被って
鎮座していた。本当は鳥のフンのほうが多いんだ。 この寒さでも戦車に装甲車の昨日の四台は
元気にエンジンが吼えている。寒いんだから少しは遠慮して欲しいよ。俺は最初にT-54B戦車を
操縦することになった。古是君は歩兵戦闘車BMP1に乗ったようだ。小柄な戦車操縦の教官が
なんかモンゴル語でまくし立てる。スタッフがそれを日本語に同時通訳する。エンジン音がうるさい。
戦車の操縦室のハッチに入るのは大変だった。昨日の射場でモンゴル側の旅行エージェント会社社長
若い大柄なでナランが、俺のスノーパーカーを見て自分の防寒着を渡してくれた。古是君はモンゴル兵の
軍用防寒着を渡され頭はウシャンカ帽に、下はKGB国境警備隊の迷彩服で胡散臭さが際立っている。
話を戻そう。T-54B戦車に搭載している重機関銃の弾薬14.5mmを用意していた。
射場の白い乗用車を目標に撃つという。 T-54B戦車の操縦手のハッチは非常に狭いのだ。
俺は体がでかい。入らないんだ。仕方なく借りた防寒着を脱いで中へ片手ずつ入れて体を潜り込ませた。
戦車も装甲車もトラックと同様に二速発進で加速をつけて三速へ、また加速をつけて四速、トップギアは
五速なんだ。このギアはメチャクチャ重い。在宅ワークでペンより重い物は持たない俺の体がなまっている。
やっとの思いで二速から三速に入れるが四速は何度やっても入らない。三速に入れる間に速力が
落ちでやり直したり、エンストしたり散々だ。クラッチペダルも30cm以上も踏み込まないと、
クラッチ・レバーの切り替えが出来ない。サラリーマン時代にホークリフトは良く仕事で運転し、
自動車の感覚とペダルは同じだがソ連製戦車は全然違っていた。
ソ連戦車の変速機は後ろにありクラッチ・レバーから長い鉄の
バーが後ろの変速機に延びているので、その分やたらと重い。ソ連戦車兵はハンマーでクラッチ・レバーを
叩き入れるというのはあながち嘘じゃなかった。仕方なく三速で数キロ走って古是君と交代した。
この戦車は戦後開発した54年型でソ連戦車初期の代表格だ。これからT-55、T-62、T-64と72へと
発展していく。 次に乗った『歩兵戦闘車BMP1』は運転が非常に楽チンだった。クラッチは同じ
手動操作だが、ハンドルの形状は愛嬌のない一本のクビレのあるバーで、ハンドルのワッカが
取れたような形を想像すればいいだろう。BMP1の加速は素晴らしく敏捷だ。時速50kmまですぐに
アップする。ブレーキに気をつけろと言われた。きっとガッチョーンとすぐに停止し利きが良すぎるのだろう。
ハンドル操作にも敏感に反応する。スゲーや。これは何のストレスもなく快調に走れた。
『歩兵戦闘車』という名前の通りに後部座席に八名の歩兵を搭載出来るが、歩兵を戦場に運ぶだけでなく
戦車部隊に追従して戦車に近い戦闘力を発揮できる画期的な兵器なのだ。 BMP1は狭いために
完全武装では八名は無理なんだ。砲塔の装備火器は対戦車用の7.3cm低圧滑空砲と汎用軽機関銃。
それから主砲の上にAT--3“サガー”と呼ばれる対戦車ミサイルが設置される。
これは70年代の代表的なリモコン・ミサイルである。歩兵を運ぶ装甲車ではなく十分に戦える
歩兵戦闘車なんだ。戦車はもう操縦したくないが、このBMPは乗り回して楽しい 六キロ地点の
MMP射場の前で偵察装甲車BRDMに装甲兵員輸送車BTR-60PBが先に来て待っていた。
ここでさっき用意した重機関銃の弾薬14.5mmの射撃は何故か中止された。理由を聞いたら一度も
射撃してない新品で、機銃の機関部がグリースで覆われ凍り付いて使えないのだ。ではBMP1の
73mm低圧滑空砲を射撃しようとなったが、これも同様の理由で射撃は中止となった。
ソゴー少佐は火器担当の例の軍曹を叱り付けていた。仕方ないよねw さて、ここから先は装輪の
装甲車に乗り換えて10km先の河まで行く予定になっており、キャタピラでは大地を穿り返して近所の
遊牧民から苦情が出るらしい。俺はBRDMの操縦席についた。インストラクターが簡単に教えてくれる。
で発進して手真似で進行方向を指示するだけだ。 BRDMは偵察用装甲車だ。
BTR-60PBと同じ砲塔が搭載され14.5mmKPVT-MGと7.62mmPKT-MGが装備火器だ。
基本的に偵察車なので重武装ではない。7.62mmPKT-MGは昨日MMP射場で射撃したPKMの
車載型だ。14.5mmKPVT-MGは重機関銃で射程は長く貫通力はあるが戦車には勝てない。
偵察装甲車だけあって足回りは良く廻り、四輪駆動だが車体の腹の下には更に
小型の四輪が上下し腹がつかえることがなく悪路を走破できる優れものだ。
BMPほどではないにしてもBRDM操縦は楽勝で、乗り心地もタイヤなので申し分ない。
第150部隊が市街戦を訓練している国連軍訓練センターの脇を抜けて、凍てついた原野を
ひたすら走り続けた。本当に野を越え山を越えて走り続けて長い下り坂を下って、
底までも氷結した川を越えてひねた木立が密集し一面砂利の堆積で覆われ場所で交代のために停車した。
俺はBRDMから降りようと身を外へ乗り出して、手摺から手を滑らせて砂利の川原に転げ落ちた。
落ちた瞬間かなり痛く体が動かなかったが、BRDMインストラクターが駆け寄って起こしてくれた。
着膨れしていたお陰で怪我はしていなかったが、自分の身長高から落ちたのでかなり痛かった〜w
ここで二人のインストラクターがBRDMとBTR-60PBの操縦の妙技を見せようと言うことになって、
砂利を飛ばしながら快調に走り回った。普段は燃料が不足しているので自由に走り回れないようだ。
BRDMは木立の間を器用に小回りを利かせて走り回った。 さて次は俺がBTR-60PBに乗り込んだ。
戦車も装甲車も乗車ハッチは上部にあってジジイの俺には一苦労だ。着膨れして動きが非常に悪い。
八輪の装甲兵員輸送車BTR-60PBだがクラッチの向きが今までとは逆だ。何故か不思議だよ。
インストラクターがクラッチを握って俺には触らせない。今まではクラッチ操作が出来たが、
このインストラクターはクラッチレバーを独占して離さないのだ。切り替えるときだけ合図に合わせて
結構頻繁にギアアップとかギアダウンの合図をするんだ。このBTR--60は八輪装甲車で
搭載エンジン二台で左右別々のタイヤを駆動するのだ。エンジンがパワー不足か高回転の
唸り声上げさせてやっと走っている。このBTR-60の特徴は走行中に八輪のタイヤの空気圧を変えられ、
どんな軟弱地でも自由に走れる。 俺が運転していると前行くBRDMが遅くて接近してくる。
隣のインストラクターは追い抜けと言うが、何故かパワーが落ちてきた。
ここで突然回転が吹き上がりエンストしてしまった。ガス欠だよ。
しばらく待っていると見えなくなってしまったBRDMが戻ってきた。ニヤニヤと笑いながら
BRDMのドライバーが5リットル容器を出してきた。給油が終わると省エネ走行をするから
俺と代われと言うので座席を譲った。隣のほうが楽でいいし風景を見て楽しんだが、
このオッサンもかなり吹かし過ぎじゃないのかな。燃費が悪いのかまたガス欠になった。
再度BRDMのドライバーがニヤニヤ笑いながらガソリンを出した。老練な下士官は“隠し玉”を
イッパイ持ってるようだ。 『国連軍訓練センター』の建物のシルエットが近づいて来ると、
地面にシミのような物が見えてきた。次第に近づくとそれは立て膝で待機姿勢のモンゴル兵の姿になった。
気温は曇って零下三十度だが動かないと地面の一部にしか見えないのだ。命令が飛ぶと一部の兵士が
動き出してやっと人間だとわかる。 飽食の時代に生きた我が国の若い自衛隊員に、忍耐強いモンゴル
兵士のような力量があるか俺は初めて疑問が沸いてきた。 ガス欠のBTR-60はセンターにいた
トラックからガソリンを補給した。ここから俺に運転の許可が出た。しかしパワーのないエンジンだ。
乾燥しており前方を走る装軌車両はホコリを大量に巻き上げていく。夕闇が迫る頃に俺たちは
車両パークに戻ってきた。 装甲車はさっそく冷却水を抜いていた、そのまま放置しておくとラジェターが
氷結してパンクするのだ。 MMP日本人スタッフがウランバートルに急いで戻りましょうと言った。
この後にモンゴル国軍参謀本部副部長との会食があるのだ。俺たちのワゴンと乗用車は楽しい
タバン・トルゴイを後にした。凄く楽しかった。今年一年は最悪の年だった。六月のタイ王立戦車学校の
戦車や装甲車はお粗末そのものだった。ツアーガイド役のヤツは後に拳銃密輸で捕まり、俺がツアー客を
代表して大阪府警に協力した。 これでやっと2004年の厄払いが終わった気がした。
ホテルに荷物を置いて最初の夜に寄った韓国レストラン「ソウル」に入った。駐車パークには
車が沢山入っており、ウランバートルは忘年会のシーズンに入ったのだ。
二階ダンスホールでは騒々しい生バンド演奏で肌を露出したイブニングドレスの似合わないオバンが
多く踊っていた。昔は流行ったランバタまで演奏しているが、ダンスはいたってノーマルだ。
防寒着姿の俺たちは凄い場違いな気がした。 会食のテーブルはガラス壁で区切られた隣の広間で、
モンゴル国軍参謀本部副部長ガンバット大佐を中心にに旅行エージェントのナラン氏、俺の隣には
ナラン氏の親父で通称『バカボンのパパ』のサイハンフー氏。
(サイハンフー元少佐は、ナランの親父である国境軍中佐の部下だった人です。)
国境軍の元少佐でモンゴル軍の射撃競技で五年連続優勝のチャンピオンなのだ。強風下でも
四百メートル先の15cm四方の標的に命中させることが出来る、射撃の神様で次回モンゴルに行ったら
狙撃の講習を受けようと思っている。 モンゴル国軍参謀本部副部長ガンバット大佐は
モンゴル国軍ナンバー2のモンゴル期待の新星で、春には最年少の四十二歳で少将に昇進する。
ソビエト時代に各種学校を九年間留学し冷戦終結後には米国には一年間留学したスーパーエリートなんだ。
古是君はガンバット大佐の正面に座ってロシア語で会話を始めた。通称“ガンバ”大佐は国家と軍を
代表したやり手の外交官で、六月には来日しており防衛庁長官に『国連軍訓練センター』を自衛隊にも
使って欲しいと話したらしい。 自衛隊は高い金を米国払って米国で演習し、沖縄のマリーンは
安いモンゴルで演習をするわけだ、どっちが得をしてるのかな?
テーブルの右側にはMMPスタッフの先に書いた“三人姉妹”が全員揃った。隣には射撃インストラクターの
軍曹もいて、何時の間にかアイドル系女性スタッフと隣のダンスフロアで 踊っていた。やるもんだね。
ガンバ大佐は自分の若い一兵卒の運転兵を呼び入れて食事をさせている。
ガンバ大佐は職務中は強面で彼を避ける将校は多いと聞くが、部下への心配りはガンバ大佐の
心の片鱗を伺わせ俺は改めて人間を勉強をさせて頂いた。 この二階広間での会食が終わり
ガンバ大佐達が帰ると、俺たちは最初の夜に入った部屋でカラオケ大会を始め、
俺も十年ぶりくらいで酔いも手伝って人前で大声で歌ってしまった。この店のモンゴル女性の
ホステスは長い足を惜しげもなく出していた。MMP日本スタッフからは、この店はオネーチャンの
お持ち帰りも自由ですが、手入れを受けたときに出入り禁止のほうが痛手が大きいので
お持ち帰りはしませんと聞かされた。 なるほどと納得し夜明けまで饗宴は続いた。俺たちは馬鹿だねw
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「ウランバートルで毛の生えたトラックを見た三日目」 実際。トラックのエンジンルームに毛がフサフサと
生えていたんだ。防寒のために毛布を被せるのは知っているが毛皮なんだ。毛皮のほうが毛布より安いし、
実用的なんだろう。市内を走る車では韓国のヒュンダイ、次がチェコ製のワゴン、
日本車では三菱が多くトヨタの四駆も走っていた。ちなみに俺たちの移動は三菱のワゴンだった。
三日目は朝一でMMPスタッフと同じ迷彩服をオーダーしたいと、軍の被服廠に行こうと思ったら忘年会で
休みだという。普通忘年会で休むか? 市内観光に切り替えて最初に軍事博物館に行った。
内部にはチンギス・ハーン関係の軍事資料など歴史的展示物に始まり、革命を経て近代化して
ハルハ河の日本軍との戦いに、軍服に銃器関係の展示や歴代の将軍や司令官などの
鉛筆画まであったが、この博物館は建設途中でストップしていた。資金難だという。野外には戦闘車両と
野砲のエリアがあったが、野ざらし状態でかなり痛んでいる。ここには旧日本軍の完全なチハ車が
倉庫に眠っているらしい。例の「ハルハ河事件」つまりノモンハン事変での捕獲車両なのだ。
軍事博物館として完全に整備されたら、その多くの戦闘車両と共に屋内展示して飾って欲しいな。
この近くにはノモンハン事変でのソ連軍の司令官だったジューコフの博物館がある。
この日は行かなかったが次回は見学に行きたいと考えている。ジューコフは戦後スターリンに
冷遇されたので、ロシア本国でも記念館さえないのだから、この博物館は貴重な存在となるだろう。
昼は市内のレストランで昼食となった。午後からはスーパーを回り市内で一番のデパートに寄った。
ここでタイトルにした『人間公衆電話』を見たわけだが、気をつけて見ていると人の流れの多いとこには
必ず立っていた。このデパートはかなりのお客で賑わっている。五階に登って俺の師匠にあたる
中西先生から頼まれた、蒙古の弓を探して買った。本物は大きいし機内持ち込みも面倒なので、
半分のサイズの玩具にした。玩具でも本物と同じ牛の骨で出来ていて、この記事を書いている現在、
中西先生から感謝の電話がきた。この先生は俺が業界に入る切っ掛けとなったプロの絵描きで、
現在は歴史考証画を専門としている。リアリズムの世界ではトップクラスで大学の講師の誘いも
受けているとか。 ここで急に俺の腹が急降下した。俺はスタッフにあわててトイレ探しを頼み、
四階のトイレに飛び込んだ。 間一髪、ヒツジの油が効いてきてヒドイ下痢が始まった。羊は美味しいが
注意が必要というアドバイスが頭をよぎった。赤茶けた液体がほとばしり出て、便器の周辺をひどく汚した。
長靴にも下着にも飛沫が飛んで大変だった。こんなヒドイのは南米で生水を飲んで一回、新宿で
昼から夜まで飲んで一回、そしてこれだ。(この日ホテルに帰るまでパンツは我慢し夜中にパンツの
洗濯をした。) トイレのドアがドンドンと叩かれモンゴル語が聞こえている。俺は持っていたテッシュを
全部出して、自分の尻と足元の汚れを何度もふき取り掃除をした。海外に行くとトイレット・ペーパーは
大事な必需品だ。ペーパーのないところも多く、ペーパー自体トイレで流せないんだ。モンゴルも同じで
拭いた紙は隣のダストボックスに入れるんだ。南米ではトイレ入り口にペーパーの売り子がいた。
完全とはいかないが(最後は紙がなくなった)やっとトイレから出たら、男が二人待っていた。
俺は逃げるように出た。 『四階のトイレをウンコだらけにしたのは日本人の俺です。
モンゴル国民の皆様ゴメンナサイ。』 みんなと合流して一回の食品売り場に行き、
ここで馬乳酒二本を買った。スタッフのサラが先生大丈夫かと心配して声をかけてくれた。
俺の体調は急速に上昇した。レジのところでお前たちは何処の国の人間かと白人から英語で聞かれた。
古是君はアイ・アム・ジャパン。俺はジャパニーズと答えた。ここウランバートルで日本人は珍しいのだ。
次にウランバートルで一番の市場『ザハ』に行った。車を駐車エリアに止めて雑踏を掻き分けて市場に
入り口から入った。大露天市なので屋台に凄い人ごみで、ここでは売ってるものがないというほど、
なんでも揃っている。いや、何でも売っているという方がピッタリで銃も弾薬も、軍用のAKも商品らしい。
ボタンからソーラーパネルまで何でもあった。だが、ここはスリが多くモンゴルで一番の危険地帯なのだ。
財布やカメラにウエストポーチはしっかりと防寒着の下に入れた。ここの市場は一面アイスバーンの上で
立って商売をしてるのだ。大人も子供もみんな氷点下二十度の中で商売をしている。
モンゴル人っていうのは逞しいぞ。おれはデパートで必要なものは買い揃えたので、
ここでは何も買わなかった。 さて日も暮れて最後の夜を迎えた。街中のチンギス・ハーンの二体の像が
入り口を飾った『ゲル』を形どったレストランに入った。メインフロアでは生バンドで何処かの会社の
忘年会が始まっていた。次第にこれは騒々しくなっていく。奥の広い個室には今回のツアー関係者が
皆集まっていた。ここでの宴会も楽しく始まり、俺はおなかに負担の少ないスープを注文した。
ヒツジ肉とたまねぎだけのスープだが意外と美味しい。また次に来たらこのスープを食べるぞと心に誓う。
モンゴルの夜はふけ宴会は延々と続きそうなので、深夜前には俺と古是君は帰国の準備の為に
スタッフに送られてホテルに戻った。 「さて帰国だ」 冒頭に書いたように警察署長の
パトカー先導つきだった。
午前六時なので車はいなかったが、信号は全部無視して走っていった。
ウランバートル国際空港から来た時とは逆の順序で日本に戻った。成田でMMP日本スタッフと別れて、
古是君とラーメン屋に入って生ビールを飲みながら旅の余韻にひたった。古是君に
『先生!楽しい旅行アリガト!』と言われてちょっと面食らった。俺も同じで今までのツアーの
中では一番楽しかった。この三月からはソ連製“ランチュ・バム”7.5cm対戦車砲が撃てるのだ。
サバゲ仲間を集めて今年はソ連軍コスプレで対戦車砲チームを作ろう。 俺は今年でプロ・デビューして
三十年で54になる。よく働いて来たと思うし、これから年一回はモンゴルで自分を接待しようと思っている。
さて自分の接待という大いなる目標の為に仕事をするか。

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